不可能なる世界
出来事は出来する。それは〈わたし〉に出来る。そして物語が出来上がる。それは〈美しい現実〉という物語である。

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不可能性の問題1996試論
§5.埴谷雄高、レヴィナスと九鬼周造の間に
 レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。

 不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
 その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。

 個性も同一性も無化されるような極限的な孤絶性のなかでは〈他のようではありえない〉という同一性すらも突き破った酷似性、もはや同じではありえない端的に単独の異貌のかたちがそれ自体の不可能性の核心へと凍結してしまっている様相しか描き出せないのだ。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:35  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§4.実体と様相の美学
 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。だが論述においては彼は不可能性から出発している。


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Date : 2005.12.27 Tue 00:29  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§3.自同律の考究
 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。

 自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
 自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:24  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§2.可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」
[承前]

 不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。

 「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。
 それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。
 またそれは「内可能性」(in- possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。

 そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。
 それで、可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。

 つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。
 自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。

 しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。

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Date : 2005.12.26 Mon 22:24  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§1.形而上学という「醜教」―有難迷惑な存在論と出来損ないの倫理学
 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

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Date : 2005.12.26 Mon 22:06  不可能性の問題1996試論| コメント(1)|トラックバック(0)
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