不可能なる世界
出来事は出来する。それは〈わたし〉に出来る。そして物語が出来上がる。それは〈美しい現実〉という物語である。

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不可能性の問題
「不可能性の問題」とは何か
 「不可能性の問題」というのはどういう問題であるのかを以下に少し解説したいと思います。

 ここでは九鬼周造の『偶然性の問題』を批判的に分析しながら、彼の偶然性の形而上学を不可能性の形而上学に改造するという、いわば九鬼周造ならぬ九鬼改造の哲学をでっちあげるという作業をします。というか、もともと「不可能性の問題」というのは、『偶然性の問題』の中で伏在的に示されていて、僕はこの本からそれを学んだからです。


 九鬼は同書のなかで、偶然性の見地から必然性を批判しています。僕はこれにならって不可能性の立場から可能性の概念に対して形而上学的な批判を加えようと考えているというわけです。

 つまり、九鬼が偶然性の形而上学の構築と必然性の形而上学の批判をやったのとちょうど交差するような形で、不可能性の形而上学の「創作」(僕は「構築」をやるつもりはありませんし、するべきでもないでしょう)と可能性の形而上学批判を一緒にやってみようとしているのです。

 で、九鬼ですが、彼は『偶然性の問題』の第三章「離接的偶然」のなかで、様相論理学の問題に触れています。僕が不可能性という「様相」の不思議な面相に気づいたのはそこにおいてなのでした。

 彼は、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つの様相の切っても切り離せない四位一体の相互規定関係を指摘します。そして様相論理学においてこの四様相はいずれも全く同格・平等であるにもかかわらず、形而上学的見地からはそのうちどれか一つの様相をいわば「根本様相」(注--これは僕の用語です)とし、それから出発して残り三様相を否定的に規定して意味づけていかなくてはならないという問題を描いているのです。


 これはどういうことかというと、例えば「可能性」(有り得る)を根本様相とすると、不可能性は「可能性の否定」(有り得ない)、偶然性は「否定の可能性」(無いことも有り得る)、必然性は「否定の可能性の否定」(無いことは有り得ない)として、可能性をその意味の根として理解されるということです。

 根本様相というのは現代の様相論理学で様相記号によって表現されているものにあたります。今日では、可能性を◇、必然性を□で表して、実際には双方同時に、つまり可能性の形而上学および必然性の形而上学の二重の視線の交錯のなかで、様相論理が考えられているようです。
 しかし、記号自体には意味はありません。問題はその形式性の方にあります。様相論理学は根本的に形式的な学問なので、何が根本様相であるか、或いはなければならないかというような形而上学的問題には無関係に成立します。
 そこで、それが一体どの様相であるかは不決定のままにして、とにかく根本様相となるべき任意の様相を様相記号◆で表すとし、否定を~、命題をPとします。
 すると、各様相をあらわす次の四つの記号式が純粋に形式的に得られることになります。

 ◆P
 ~◆P
 ◆~P
 ~◆~P


 根本様相というのはいわば関数や代数みたいなものです。で、可能性をこの根本様相◆に代入してやると、可能性の形而上学にもとづく可能性の様相論理が出来上がる仕組みになっている。


◆P   可能性  Pであることは有り得る。
~◆P  不可能性 Pであることは有り得ない。
◆~P  偶然性  Pでないことも有り得る。
~◆~P 必然性  Pでないことは有り得ない。


 しかし、根本様相には、不可能性も必然性も偶然性も全く権利上同様にそれになり得るという「可能性」(奇妙な言い方ですね)があるのです。つまり、必然性の形而上学、偶然性の形而上学、不可能性の形而上学、可能性の形而上学という四つの形而上学が有り得る。そしてこの四つは論理的に全く平等であり、そのいずれの場合にも、様相論理学は微動だにせず純粋に形式的に成立しているということになります。

 九鬼周造はこの問題を指摘する箇所で、その当時における記号論理学において、可能性を根本様相とする可能性の様相論理学(トレンデレンブルク)、不可能性を根本様相とする不可能性の様相論理学(C.I.ルイス)、必然性を根本様相とする必然性の様相論理学(オスカー・ベッカー)があるのに、偶然性を根本様相とする偶然性の様相論理学だけがないのはおかしいといって不満を漏らし、わざわざ偶然性のために専用の様相記号まで考案してやるといったかなり莫迦らしいことまでやっています。

 しかし、よく考えて見ましょう。九鬼の問題は形而上学だったはずです。本当はそこで彼が言いたかったのは、必然性の形而上学と偶然性の形而上学は論理的に平等であるはずなのに、どうして偶然性の形而上学がないのか、という問いだったはずです。そしてだからこそ自分がそれを作るのだ、と言いたかったのではないでしょうか。そして、彼はそれを実に見事に作り上げてみせた訳です。

 ところがそのとき、本当は九鬼はもう一つの問題をも掘り起こしてしまっていたのです。それが「不可能性の問題」なのです。

 確かに九鬼の指摘した通り、不可能性の様相論理学はありました。C.I.ルイスの様相論理がそれです。しかし、不可能性の形而上学の方は存在していない。それは論理的にはたしかに存在しているのに、誰もそれを構築してみせたものはおらず、また、それが一体どんなものなのか、全く見当がつかないではありませんか。

 九鬼は、この当然出てくる問題についてはっきりと語ってはいませんが、それに気づかないほど愚かな人であったとは到底思えません。僕は、偶然性の様相形而上学者であった九鬼には、もうひとつの隠された顔、不可能性の形而上学者としての顔があったのではないかと思っています。

 不可能性の形而上学とは、では、いったいどういうものなのでしょうか?

 僕が一番、不思議だと思ったのは、不可能性以外のものを根本様相にすると不可能性はさもあたりまえのように否定的な(つまり他の様相性から否定的に規定されるので)様相にみえてしまうのに、不可能性を根本様相としてしまうと、もうそれを否定的な様相と考えることができないということでした。

 否定的な様相というのは不可能性のかぶった仮面(むしろ可能性によってかぶせられた抑圧の仮面)なのかもしれません。仮面をはずした不可能性の素顔はいったいどんなものなのだろう? そして彼はどんな風に世界を見ているのだろう。それを題材に不可能性を主人公にした一つの不思議の国の物語を創作してみたくなったのがすべての始まりだったのです。
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Date : 2005.12.17 Sat 22:39  不可能性の問題| コメント(0)|トラックバック(0)

  

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