不可能なる世界
出来事は出来する。それは〈わたし〉に出来る。そして物語が出来上がる。それは〈美しい現実〉という物語である。

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不可能性の問題1996試論
§10.〈虚体〉の創造―悪夢の彼方に
 〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
 そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
 これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。

 〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:53  不可能性の問題1996試論| コメント(5)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§9.視霊者の夢:超越論的悪夢について
 根源的な否定性である根源無が否定されることによって存在することは断定される。
 この断定を基盤にして存在の明証的自明性は肯定的に定立されている。
 しかしそのことによって、根源無は隠蔽されてしまう。

 存在は断定性である。
 断定性は第二の否定性であるが、それは存在が否性に定位することとしてはじめて自己成立させるという意味においてポジティヴ(積極=定立的)な否定性である。

 それは無自体を抹消し隠蔽する存在論的原抑圧であるということができる。それは通常の肯定/否定の双対に先行する定礎的否定である。
 それは否を安定させ、否への定位によって、その否を根拠化し、「無くは無いこと」の消極的受動態を「存在すること」の積極的能動態へと転覆せしめるような根源的なポイエーシス(存在の製作=詩的創作)である。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:51  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§8.東洋的無の安易な野蛮
 存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
 それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。

 存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
 この胎児は無によって魘される。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:48  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§7.負在としての非在と非無としての存在
 論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。


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Date : 2005.12.27 Tue 00:43  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§6.不可能存在の不可避性―イポスターズ論再考
 九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。

 偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。

 この花は現実存在の波立つ水面にたまゆらに浮かび出た不可能存在の断片的な映像であるといってよい。
 そこにあるのは「はかなさ」の情緒である。果敢さと空しさのあわいを微妙に揺れながら小さい命の美しさをきらめかせている。

 人の命は有無の境にある。それ故にそれはきれいで美しいのだ。
 有無の境に咲くこの〈無〉は、無の影であると同時に有の影でもある。無では無い無としてこの〈無〉はある――それは〈無〉というよりもむしろ〈美〉である。有無の境に〈美〉はきらめいて流れるのだ。


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Date : 2005.12.27 Tue 00:40  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§5.埴谷雄高、レヴィナスと九鬼周造の間に
 レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。

 不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
 その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。

 個性も同一性も無化されるような極限的な孤絶性のなかでは〈他のようではありえない〉という同一性すらも突き破った酷似性、もはや同じではありえない端的に単独の異貌のかたちがそれ自体の不可能性の核心へと凍結してしまっている様相しか描き出せないのだ。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:35  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§4.実体と様相の美学
 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。だが論述においては彼は不可能性から出発している。


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Date : 2005.12.27 Tue 00:29  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
不可能性の問題1996試論
§3.自同律の考究
 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。

 自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
 自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。

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Date : 2005.12.27 Tue 00:24  不可能性の問題1996試論| コメント(0)|トラックバック(0)
 

  

 

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