〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。
〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。
根源的な否定性である根源無が否定されることによって存在することは断定される。
この断定を基盤にして存在の明証的自明性は肯定的に定立されている。
しかしそのことによって、根源無は隠蔽されてしまう。
存在は断定性である。
断定性は第二の否定性であるが、それは存在が否性に定位することとしてはじめて自己成立させるという意味においてポジティヴ(積極=定立的)な否定性である。
それは無自体を抹消し隠蔽する存在論的原抑圧であるということができる。それは通常の肯定/否定の双対に先行する定礎的否定である。
それは否を安定させ、否への定位によって、その否を根拠化し、「無くは無いこと」の消極的受動態を「存在すること」の積極的能動態へと転覆せしめるような根源的なポイエーシス(存在の製作=詩的創作)である。
存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。
存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
この胎児は無によって魘される。
論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。
九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。
偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。
この花は現実存在の波立つ水面にたまゆらに浮かび出た不可能存在の断片的な映像であるといってよい。
そこにあるのは「はかなさ」の情緒である。果敢さと空しさのあわいを微妙に揺れながら小さい命の美しさをきらめかせている。
人の命は有無の境にある。それ故にそれはきれいで美しいのだ。
有無の境に咲くこの〈無〉は、無の影であると同時に有の影でもある。無では無い無としてこの〈無〉はある――それは〈無〉というよりもむしろ〈美〉である。有無の境に〈美〉はきらめいて流れるのだ。